コラム

2023.11.14

他者と「共にある」ということ——ポスト体験時代の記憶の継承に向けて—— 

三好恵真子
大阪大学大学院人間科学研究科教授
本拠点兼任教員

戦争体験者から戦後派、戦無派へ
未曾有の事態となったCOVID-19パンデミックの渦中において、2022年2月に突如始まったロシアによるウクライナ侵攻は、核使用の危機をも浮き彫りとしつつ、「総力戦体制」に否応なく人びとの暮らしが組み込まれてゆく現実を浮かび上がらせ、その影響は、経済的相互依存関係を介した食糧、エネルギー危機、環境問題として形を変えながら世界各地へと波及しました。また10月初頭、パレスチナ暫定自治区のガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスがイスラエルへの攻撃を開始し、イスラエル側も激しい空爆で応酬をするという激しい衝突によりパレスチナ情勢は緊迫し、世界を震撼させています。このように、常に戦いの犠牲となるのは日常生活を送る市井の人々であり、それは広島、長崎への原爆投下や激しい地上戦が展開された沖縄戦が伝える戦時期日本の歴史を私たちに改めて想起させることになりました。戦後78年を経て風化が進むこれらアジア・太平洋戦争を巡る体験と記憶は、戦争体験者の直接的な証言が聞き取れなくなる「ポスト体験時代」へ突入しつつある今日、未来世代への継承が喫緊の課題となっており、また人々が暮らしの中で直面してきた現実を、「戦後日本」だけに留まらず、東アジア全体が経験してきた歴史の文脈の中に位置付け、今日への連続性を問い直してゆくことにも目を向ける必要があるのではないでしょうか。

このような要請に応えていくために、私たちのプロジェクト(「21世紀課題群と東アジアの新環境:実践志向型地域研究の拠点構築」)では、2023年10月29日(土)にシンポジウム「記憶の継承を祈念するグローバル・ダイアログ」をオンラインにて開催したところ、国内外から100名を超える参加者が結集し、問題関心の高さが伺えました。第1部では、「戦争・戦後体験」を基軸とし、戦争体験者からは孫世代に当たる「戦無派」である学生たちが主体となって、3つの研究成果報告を行いました。続く第2部では、学生たちの現地での「記録写真」を併せながら応答を行うとともに、長崎にて平和活動を行っている城山小学校被爆校舎平和発信協議会の2人の実践家に登壇頂き、日々の活動や取り組みについて紹介頂きながら、それを支える思いや願い等の貴重なお話も伺うことができました。本シンポジウムの詳細については、本年度末に発刊予定の成果物(OUFC booklet No.18)に譲り、ここでは参加者の中から質疑応答の際にコメントを頂くことができた、被爆体験者であり、長崎平和推進協会、長崎証言の会会員として現在も講演活動を続けておられる山川剛氏について、同氏の著作(脚註)を元にその来歴を紹介しつつ、話しを進めてみたいと思います。

長崎の被爆教師の平和活動が示唆するもの
山川氏は、小学校の6年間のうち、3年間を戦時下の国民学校で軍事主義を、のちの3年間を戦後の学校で民主主義を習うという戦中・戦後の激動を経験しており、8歳の時に長崎にて爆心地から4.3㎞の地点で被爆されました。36年間小学校に勤務され、在職中から平和教育に心血を注がれ、1980年のユネスコ「軍縮教育世界会議」や1999年のオランダ「ハーグ平和市民会議」にも参加するなど、国内外で活動してこられました。退職後も被爆体験の語り部となって高校でも「長崎平和学」を9年間担当されながら、2023年には平和活動に功績のあった人や団体を表彰する「秋月平和賞」を受賞されています。

長崎での平和教育に注視すると、敗戦・占領の混乱期を経て、被爆10年目にあたる1955年に全国に先駆けて「平和教育研修会」が被爆校である小学校にて4日間にわたり開催されました。全国各地から700名の教職員が参加し、長崎の被爆教師の生の報告をもとに、3つの分科会に分かれて、平和教育に関する具体的展開について討議され、「原水爆の恐怖は全人類のものである。われわれは原爆十周年を迎えて平和を守る決意を新たにするとともにそれぞれ持場に帰ってより強力的に平和運動を展開する」という宣言文が発表されました。しかし、この集会は1回限りで終了し、平和教育が組織的に行われるようになる「長崎市原爆被爆教師の会(被爆教師の会)」の1970年の結成まで、それから15年の月日を要することになるのです。

1961年から小学校教師として勤務していた山川氏ら教師は、上記の「被爆教師の会」結成を受けて、原爆投下から四半世紀を過ぎているものの、子どもたちが戦争や原爆をどう受けとめているかを知るために、およそ1000人の児童・生徒を対象にアンケート調査を実施しましたが、その結果は衝撃を受けるものでした。すなわち、長崎に原爆を投下した国を知らない小学生がおよそ19%いたこと、また「戦争や被爆について誰から聞くか」という設問のいくつかの選択肢の中で、最も選択されなかったのが「先生から」だったのです。こうして「子どもの無知は教師の沈黙にあったのだ。教えなければ知るわけがない。」ということを子どもたちに突きつけられ、山川氏は、その責任からこの時「被爆教師」になることを自覚し、平和教育を使命とする実践をスタートさせることになったのです。

       長崎・平和公園(2020年3月 大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程 吉成哲平さん撮影)

その後、いくつもの苦難に直面しながらも平和活動を地道に続けて行った山川氏にとって、更なる転機が訪れます。定年まであと数年となる1994年、運動会のために飾る万国旗を準備している時、両親の転勤の都合による来日3年目の韓国の児童に「センセイ、ハタ アル?」と尋ねられました。「そりゃあるさ、お隣の国だもん」と山川氏は答えたものの、万国旗は20カ国が束ねられているだけで、いくつか探しても韓国の旗が見つからなかったことに愕然としました。そこで山川氏は手作りの韓国の旗を作ったものの、この「センセイ、ハタ アル?」への内省から、その児童がいずれ韓国に戻った時に日本をどう学ぶのだろうかと感じ、韓国から歴史教科書を取り寄せてもらい、日本の教科書でも取り扱う「韓国併合」の箇所を和訳して冊子を作りました。当時長崎の6年生が使っていた教科書での当該記述は8行だったのに対し、韓国の国定教科書の記述では補完する資料を含めて26ページにも渡っており、歴史の事実が読み取れる記述の差異を実感せざるを得ませんでした。

当該児童が韓国に帰国した後、同じ学級だった子の母親の発案により、「山川先生と行く韓国の平和の旅」(親子23人)が実現しました。ちょうどその頃、かつての朝鮮総督府の建物を韓国政府が解体するという報に接して、その前に子どもたちに見せておこうという話になったのです。当該児童との再会を果たし、旅を終えて長崎に戻ると、母親たちが記録集を作りはじめました。親たちは「まず韓国の人々の痛みを知る努力を」、「子どもたちの将来に貴重な財産」と綴り、子供たちは、原爆被爆とは違う戦争があったことを知ることになりました。日韓の歴史認識を共有するためには、歴史記述のギャップを埋める努力なくしてはなし得ず、ささやかながらも重要な一歩を踏み出す機会になりました。

山川氏は「秋月平和賞」の授賞式にて、「子どもたちの声に導かれて今日まで歩いてきました。これまで私に関わってくれた多くの子どもたちに深く感謝しています。」と言葉を残しています。

他者と「共にある」ということ
山川氏の平和活動の軌跡を辿りながら、私は、同世代を生きた亡き父のことをぼんやりと思い起こしていました。父は実直な化学研究者でしたが、地域ボランティア活動にも熱心で、市の「子ども会育成連合会」の組織を立ち上げ長年会長を務めるとともに、定年退職後にも市の「ユネスコ協会」の事務局長を務めながら平和活動に情熱を傾けていました。市内にある2つの小学校で「戦争体験」の話をする授業を亡くなる直前まで行っており、自分の孫よりも小さな子どもたちに、父自身も子どもの頃に味わった苦しい戦争体験の記憶について語り継いでゆくという試みでした。授業の後に子どもたちが綴ってくれた感想を、小学校の先生が自宅まで届けてくださりましたが、大切な何かをしっかり受け取ってくれていることが分かりました。実のところ私自身は、両親から戦争の話やその経験などを日常の中で聞くことはほとんどありませんでした。それでも父は、「他者のことを家族のような気持で」と常々口にしており、また母は3度の食事の前に必ず家族の健康、そして災害や争いが起こらない平和のために祈りを捧げていました。いま思い返すと、生きる日々の経験の中で、身体から何かを学び取り、日常の尊さから考えを深めることができていたのかもしれません。

山川氏は、私たちのシンポジウムの中で、「(歴史的)事実」とは別に「事実から何を読み取り、理解できるか」であり、また、記憶の継承のためには、モノ(遺構や碑など)を残し、人を育てることが重要であると諭してくれました。つまり、モノだけ残しても不十分であり、継承には「人を育てる」ということが肝要になるのではないかと。さらに50年間平和活動を続ける中で、「どうして、人は戦争するのですか。」という問いが子どもたちの感想の中に常に現れており、大人や教師はそれに答えてこなかったのではないかと、皆に問いかけておられました。自らも被爆者であり、生涯をかけて教師として平和活動を続けられてこられた重みが、フロアー全体にも鳴り響いていました。

日本では、敗戦という大きな転換期において、思想の科学研究会による『思想の科学』や花森安治らの『暮しの手帖』に代表されるように、それまで「日陰」に置かれてきた、生命を含めた暮らしへの関心が大きく高まっていったことを、今一度思い起こしてみる必要があります。すなわち、戦争と敗戦という未曾有の歴史的経験に対し「真正面から、根源的に」向き合う担い手としての、思索を専門としない日常を生きる一人ひとりの民衆の営為にこそ視線が注がれるのと同時に、生き抜くための面従腹背のしたたかな二面性と共に、時として状況を無批判に受け入れもする「弱い個人」であったということ、またこうした「ひとびとの哲学」は、各々が日常を生きる中で具体的な行動として表現され、たえず変化していくものでもありました。それゆえに私たちはいま、それぞれの時代社会に生きる個々の人間の生き様を見つめながら、そこに通底する普遍的本質を見極めていく眼差しを再び取り戻していく必要があるのではないでしょうか。子どもたちの未来を守り、過ちを繰り返さないためにも、この問いに引き続き真摯に向きあっていかねばならないと思います。

[脚註:山川剛氏の著作]
・ 山川剛『希望の平和学 「戦争を地球から葬る」ための11章』長崎文献社(2008)
・ 山川剛『私の平和教育覚書』長崎文献社(2014)
・ 山川剛『被爆体験の継承 ナガサキを伝えるうえでの諸問題』長崎文献社(2017)