コラム

2022.05.19

きっかけは一枚の写真――チャールズ・A・ビアードと日米関係

中嶋 啓雄
大阪大学大学院国際公共政策研究科教授
本拠点兼任教員・運営委員

私はもともとアメリカ外交の原点ともいえるモンロー・ドクトリン(1823年)を研究していました。モンロー・ドクトリン(ないしモンロー主義)とは「西半球」=南北アメリカへのヨーロッパの介入・干渉に警告を発すると同時に、アメリカ合衆国はヨーロッパ問題に干渉しないと宣言し、その後、伝統となった外交方針です。アメリカ国民のかなりの人々は、今でも自国が道徳的に正しく、北米大陸は腐敗した外部世界に対する自由民主主義の最後の砦であるとの自己像を持っているように思います。私はその思想の起源がどうやって形作られたかを研究していたわけです。

モンロー・ドクトリン研究を進めていくなかで、第一次世界大戦に参戦した後悔から、両大戦間期、とりわけ1930年代にアメリカが孤立主義――モンロー・ドクトリンの一方の側面――に陥ったことについても、関心を持って文献を読んでいました。そして、その過程で著名な政治学者でアメリカ史家でもあるチャールズ・A・ビアードが、北東アジアの国際政治にかかずらうよりも南北アメリカの防衛に専念して、大恐慌(1929年)以来の世界恐慌を乗り切るべきだというアメリカ外交論を展開していることを知りました。従って、ビアードという学者は孤立主義的な人だと勝手に思っていました。ところが、私がちょうどアメリカの大学院に留学していた1990年代前半、とある写真を見て驚くことがありました。アメリカの学術雑誌Journal of American Historyに載っていた歴史家ジョン・ハイアムの「アメリカ史の未来(The Future of American History)」という論文に収められていたものですが、孤立主義的な学者だと思っていたビアードが日本を訪れて和室に座っている写真だったのです。その頃、ビアードが日本に来ていたとは知らなかったので、「なぜこんな有名なアメリカの学者が、しかも、孤立主義的な考えの学者が日本に?」と不思議に思い、背景を知りたいと思った、それがチャールズ・ビアードと日米関係というテーマに出会ったきっかけです。このテーマは博士論文をまとめた後にじっくり研究したいと温めていたもので、この15年位でだんだん本格的に深めることができるようになってきました。
 
現在は広く日米を中心とした知的交流と国際政治との関係についても研究を行っています。より具体的には、おおむね1920年代から1970年代にかけての戦争を挟んだ日米の交流に焦点を当てています。知的交流というのはつまり文化交流のうちのひとつなのですが、学者・専門家の交流を指し、それを主に日米関係の文脈で研究しているわけです。

関東大震災後の横浜の焼け跡に立つビアード夫妻(1923年10月6日)、『チャールズ・A・ビアード』(東京市政調査会、1958年)より転載

ビアードは20世紀前半のアメリカを代表する知識人の一人で、1922年9月から翌年3月にかけて半年間、市政改革のために当時、東京市長を務めていた後藤新平によって、日本に招かれています。そして今でも日比谷公園の近くにある、新設の東京市政調査会を主な舞台に市政改革について調査し、東京・大阪・名古屋・神戸・京都といった全国の主要都市で講演を行い、東京帝国大学等、東京の諸大学や京都帝国大学でも市政学について講義しました。大阪では中之島の旧朝日新聞大阪本社ビルの最上階にあった講堂で、「アメリカにおける市政能率化のたたかい」と題した講演を行っています。1923年9月1日、関東大震災に見舞われた際、ビアードは復興院総裁となった後藤により再び日本に招かれ、10月から11月にかけて一か月余り滞在し、震災復興事業の立案にも協力しました。
 
ビアードは当初、市政改革のためだけに日本に呼ばれたのですが、やがて、ビアードが実はアメリカで著名な学者であることがわかり、そこから東大を中心として日本で緒に就いたばかりのアメリカ研究に関心を抱く新渡戸稲造の弟子たちとの交流が始まりました。これが日米間の知的交流の基礎になりました。新渡戸の弟子たちは自由主義者を自認していたにもかかわらず、戦前、また戦中、エリート知識人として政府に協力した側面がありましたが、戦後は再び日米知的交流に貢献しました。ビアードは1948年9月1日、関東大震災からちょうど四半世紀後に亡くなりますが、彼の思いを引き継ぐかたちで、日本のアメリカ研究の祖・高木八尺(たかぎやさか)東京大学教授や弟分の松本重治を中心に知的交流が再開されました。具体的には例えば国際文化会館(六本木)を設立し(1955年開館)、交流を活発化させていきます。

この研究の目的としては、政治家・外交官だけではなく、学者・専門家が国際関係にどのような貢献ができるのか、またその重要性を明らかにすることにあります。確かに結果的にはビアードや新渡戸の弟子たちが関わった知的交流が、アジア・太平洋戦争を防げたわけではありません。しかしながら、プーチン大統領に指揮されたロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻を目の当たりにして、楽観的に過ぎるかもしれませんが、学者・専門家は時には戦争の回避に、また戦後の和解には少なからず貢献できるのではないかと思っています。

近年、グローバルヒストリーやトランスナショナルヒストリーといった分野がグローバル化の影響を受けて世界的に盛んになっています。これは国境を越えた人々の活動の歴史を従来の国際政治史や国際関係史の枠組みを超えて捉えようとするもので、その一環として文化交流やヒトの移動に注目する研究が増えています。私も昨年の春、International Society in the Early Twentieth Century Asia-Pacific: Imperial Rivalries, International Organizations, and Expertsという編著をイギリスのRoutledge社から出版することができました。

また、こうした研究動向を受けて、この4月から高等学校の地理歴史科の必修科目として、「歴史総合」という新科目が教えられています。近現代の日本史と世界史を融合させた、これまでの常識から言えば画期的な試みです。私自身、高校学習指導要領の改訂にかかわり、「歴史総合」の教科書の執筆にも加わりました。偶然が重なった部分はありますが、アメリカ史の研究から出発した私が、こうした仕事に携わるようになったのも、30年近く前に目にしたあの1枚の写真がきっかけだったのではないかと思っています。

付記
本稿は2021年3月22日、国際公共政策研究科のOSIPP Newsに掲載されたインタビュー記事「【研究紹介:中嶋啓雄先生】きっかけは一枚の写真~C.ビアード研究の始まり~」(https://news.osipp.osaka-u.ac.jp/?p=7580)と内容的に重なる部分があります。