コラム
次世代への<Port of Call> ――未来への中継点としての特別資料の継承と活用――
中村充孝
ハワイ大学マノア校図書館 日本研究司書

サブジェクト・ライブラリアン(研究司書)と聞いて、どんな想像をしますか。司書だから図書館でレファレンスデスクに座っている職員!と考える人も多いのではないでしょうか。日本に帰国するたび私が知恵を絞るのは、この凝り固まった誤解をどうやって解消していくかです。なぜなら私たち研究司書がこのデスクに腰を落ち着けるのは、毎週ほんの数時間でしかないからです。ではライブラリアンは日々何をしているのか。当校のニーズに沿った蔵書コレクションの構築、教授や学生の研究支援、資料の取り寄せ、クラスごとの資料・データベース紹介、北米や日本在住の研究者との各種交渉や協働作業、国際会議・学会への出席と講演等々、枚挙にいとまがありませんが、ハワイ大学マノア校の日本研究司書として職責の中心にあるのは、実は代々引き継がれてきた特別資料の維持・管理となります。
太平洋の直中に位置するハワイ諸島、とりわけオアフ島ホノルル市は東西航路の要衝としてハワイ王国統一直後から発展してきました。19世紀後半から急速な発展を遂げた砂糖プランテーション農園は、アジア各国から労働者(中国人、日本人、フィリピン人)、大西洋から労働者・中間管理職(ポルトガル人)、北米・西欧から資本家・経営層(Haole・白人)の大規模な植民の流れをもたらしました。そして当時のコミュニティの要請に応えるべく1908年に設立されたのがハワイ大学の前身、「ハワイ農工カレッジ」。校内の図書室は当時一万冊程の米政府発行の農業関係資料を所蔵していました。やがて総合大学に発展した当校には独立した建造物としての図書館が設置され、蔵書を増やして行く中で、アジア関連書籍、なかでも日本に関する資料の必要性が認識されるようになります。その声に応えたのが当時ホノルルの日系コミュニティで活躍していた日本出身の指導者達でした。1920年、「日本研究プログラム」の発足にともない招聘された前同志社大学総長、原田助は日本・米国・ハワイの政治・産業界の協力の得て、日本学の分野で阪巻駿三・上原征生らの後進を育てるとともに、広範な日本学コレクションの構築を進めます。
一方、1907年、日本の皇族として航海の途上ホノルルに寄港した伏見宮貞愛親王は当地で大歓迎を受け、$200を日系コミュニティに下賜。その寄付を資源の一部として、それまで使われていた日本国内の教科書の代わりに、ハワイの現状に即した現地化された教科書が作られ、学校で使われるようになりました。当館では「ハワイ日本語学校教科書文庫」として六百冊程が保管され、日本語学校図書館に収められていた児童書と共に研究に供されています。現在、同教科書コレクションの展示が準備されており、2025年12月から2026 年3月末まで関連資料と併せて公開予定です。とりわけ20世紀前半の歴史の激動期に日系コミュニティがいかに二世の教育に取り組み、またその動きがハワイでどう受け止められたか。民族の米国社会への同化・異化の動きを捉えつつ、日系コミュニティと日本語教育の盛衰について展示し、研究者や次世代の学生の皆さんに考えるきっかけを提供したく考えています。3月末までにハワイ大学を訪問される方はぜひお立ち寄りください。なお貞愛親王の名は一般書架にも残っています。1935年に「伏見宮記念奨学会東洋文庫」としてハワイ州立公共図書館に寄贈された三千冊の書籍は、太平洋戦争の渦中に解体され、その一部が蔵書票付きの書籍として、今日まで当館日本コレクションの一翼を担ってきました。
前出の阪巻駿三は当校の琉球・沖縄研究プログラムの発展に尽力し、その研究成果は、沖縄コレクションの「阪巻ホーレー文庫」として当館特別資料の中でも重要な部分を占めていますが、同時に「薩摩文庫」も残しています。琉球王国研究のためには江戸時代を通して同国の支配者であった薩摩藩の研究が必要と考えた阪巻は、鹿児島大学教授であった原口虎雄の残した二千冊近くの江戸時代の写本を当時まだ珍しかったゼロックスコピーとして入手します。薩摩藩各村の有力家門の蔵に保管されていた、江戸時代の各種古文書は、家族構成や財産目録、そして各地の事件の記録ともなっており、現在同文書のくずし字解読のための最適なデジタル化方針を検討しています。
1954年、日本航空が東京ーサンフランシスコ便の運航を開始し、それまでの船旅から人々の移動手段が変わり始めました。しかし当時の航空機の性能上、途中給油が必須であったため、ハワイは1970年代まで引き続き旅客者の経由地としての役割を担います。その時期に当地に滞在したのが作家、川端康成でした。日本人として初のノーベル文学賞を受賞後、当校の客員教授として数か月ホノルルに留まり、当時の講演記録を残しています。滞在中の講義の参考にしたと思われる、源氏物語を中心とした日本古典文学関係の書籍は、後に図書館に寄贈され「川端文庫」として保管されています。大学図書館では大抵所蔵されている有名な研究書が大半ですが、ところどころに川端氏の書き込みが残されており、講義を準備する際の同氏の意気込みが伝わってきます。
作家の書斎が当館に移されたコレクションもあります。1975年、旅先の香港で客死した人気作家、梶山季之の蔵書七千冊余りが美那江夫人の手により寄贈され、当館特別資料「梶山文庫」として研究に供されています。日本統治下の京城(現ソウル)にて、広島出身の朝鮮総督府技官の父とハワイ出身の母の間に生まれた梶山は、生涯を掛けて「民族の血とは何か」を追究し続けました。通俗小説家として見られがちな梶山ですが、彼の残した蔵書群からはその真摯な生き様がありありと浮かび上がります。なお梶山文庫については、近日発刊予定の『書物學』(勉誠社)に拙文を寄稿しましたので、興味のある方はこちらもご笑覧いただけますと幸いです。
上記梶山文庫が遠くハワイまで運ばれたのは、実は前述の「通俗作家」と無関係ではありません。当時の梶山は作家として毎年高額納税者ランキング上位に名が挙がる程の売れっ子でしたが、その作品の多くは学術研究の対象とは見なされておりませんでした。そのため同氏の名を冠したコレクションの受け入れは、当時の日本国内の研究機関には難しいものがあったとのこと。梶山の蔵書群の価値を機敏に察知した当学教授の熱意と梶山の実母のハワイとの繋がりが、当館への寄贈の決め手となりました。
同じく日本国内に留まらなかったのが「高沢文庫」です。ジャーナリストの高沢皓司は、自らも新左翼運動に参加しながら、反安保・反ベトナム戦争・反公害・反原発運動等々、様々な学生運動、市民運動に関する一次資料を収集。その資料群は数々の出版物や雑誌記事と共に当館に残されています。晩年はオウム真理教の活動も追い、核関連施設の取材のためウクライナも訪問したことが、取材記録ファイルにまとめられています。こういった個人情報や機密情報を含む資料を、将来的にどこまでデジタル化も含めて公開していくか。担当司書として常に最適解を探し続けています。
デジタル化の話が出たところで、最後に「山田奈々子口絵コレクション」をご紹介いたします。明治大正期の人気文芸誌『文藝俱楽部』の巻頭を飾ったのは当時の新進気鋭の絵師達の手による木版画でした。西洋的な「小説」を日本国内の一般読者、特に家庭の女性向けに発刊した同誌は、それまで読み物に不慣れであった新たな読者層を開拓するため、小説の世界観を一枚の絵で表現し、読者を物語へと誘いました。口絵研究家である山田氏より寄贈を受けた数百点の口絵と文芸誌は順次デジタル化され、上記のサイトにて対応する作品の簡単なシノプシスと共に掲載されます。(作業完了は2026年中を予定)
デジタルアーカイブ構築には館内的な調整はもとより、著作権・契約に関する作業等、対外的にも様々な調整を求められます。上述の各種業務は、私が現職に着任してこの2年半の間に行って来た職務の一端ですが、休む間もなく働いても手が回らないのが実情です。それと同時にこれらの一つ一つが、司書である私にとってかけがえのない学びの機会となってきました。そこで今後この業務の協働作業を通して後進のトレーニングを行うべく「日本研究司書養成プログラム」を立ち上げました。来年から毎年、9か月の期間で北米の図書館修士号取得者一名を雇用し、日本研究司書として他大学のポジションに応募出来る人材を育てていく計画です。(2026年1~2月には募集要綱を発表予定。)同プログラムの実現を可能にしてくださった方々にこの場をお借りして感謝を申し上げるとともに、キャリアとしてサブジェクト・ライブラリアンに興味を持つ次世代の皆様の応募をお待ちしております。
参考文献
バゼル, 山本登紀子. “『東西の十字路』―楽園ハワイの中の古典籍とその来歴.”
書物學 蔵書はめぐる: 海外図書館の日本古典籍コレクション 18, (2020): 11–19.





